作家に迫る(第十六回) 髙木陽|カタログ「秋華洞」2020年春号

髙木陽のことを知ったのは美術雑誌『美術の窓』に連載されている山下裕二先生のコラム「今月の隠し玉」であったと思う。知られざる才能を見出すこのコラムに、髙木陽の作品が二点、紹介されていた。暗示的な黒で構成された不気味な地球儀の作品。そして、赤い線路の上に置かれる機関車の作品を見た。

髙木 陽「赤い柵に囲まれた大地球儀」2015

不吉でさえある、彼の絵の持つ禍々しさは魅力に感じたが、一方で、縁起の悪そうな作品はお客様がつかないだろうな、と思い正直少しほうっておいた。
 しかし、そのしばらくあと、ウチで行ったある画家の個展にたまたま彼がやって来た。非常に丁寧な物腰だが、絵描きらしからぬ何か異様なエネルギーがあり、無視できない気持ちが湧いてきた。
 彼はともかく必要以上に謙遜する。自分には何の才能もない、発想も陳腐で技術もない、なんの取り柄もないと。でも、本人の発する何か強い表現者のオーラのようなものは、他の画家とはまったく異質のものだった。

髙木 陽「赤い線路上の蒸気機関車」2016

そこで、機会を作って彼の家を訪ねた。それから二年ほど、何かと話す機会を持った。
才能がない、と言い張る彼は、では何故、絵を描くのをやめないのか。彼には必然があるように思われた。何かを描写すると云うよりは、彼が描かずにおられないものを描いている。その結果が、かえって人の心を動かすのだ。ザワザワとする。目を背けてきたものを、見せつけられている感じだ。

今、美術業界で最も売れ筋の絵は「写実」の流れだ。誰が見ても「美しい」表現が、マーケットの安心銘柄として取引されている。その魅力はもちろんわかるし、我々も勿論扱っている。だが、誰もが反対しない、予定調和の美だけでよいのか、という疑問は残る。

上手に線を引ける、現実のように事物を描写できる、という競争の外にある絵画の役割を、彼の絵は示唆しているように思われる。

Exhibition:柿沼宏樹×髙木陽 二人展 ドメスティックエイリアンズ 2020年7月3日(金)〜12日(日)

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髙木 陽