本当の美人画とはなにか。
本当の美人画とは、本当の人物画でもある。
たんなる美しい、可愛い女ノコの肖像を私達は求めているわけではない。
もっと人の存在そのものに分け入った、欲を持ち、嫉妬し、落胆し、喜び、泣き、滑稽で、エゴイストで、優しい、ときには神にもなれれば、ときには娼婦のようでもある、つまり優れた映画が描く女達のような、たとえば溝口健二や成瀬巳喜男の映画に出てくる女のような、あるいは甲斐庄楠音や岡本神草や秦テルヲが描こうとした「なにか」のような、そんな女のかけらを見たい、そう私達は考えている。
美人画を現代に問うた池永康晟と私はおそらくそんな「なにか」を女性像に求めており、そういう「なにか」を表現しようとする<仲間>の絵描きを探す中で、岡本東子の絵に出会った。まだ誰も新しい日本画で女性像を描こうとなどしていなかった、もう十年以上前の話だ。
彼女の絵の断片を、多分ネットか何かで、私達は見ることができた。
私達が求めるその「なにか」に、近いものを持っている画家だと思った。だがその筆者が具体的に誰で、どこにいるのかは、よくわからなかった。
一年ほど探して見つかった彼女、岡本東子は、作品から私達が思っていたよりも狂気じみた女性ではなく、落ち着いて、常識も備え、ときには自信を失いそうになる生身の女性であった。その岡本にいっそう画業に取り組んでもらい、しばしば池永の絵と並べて発表してから、もう十年ほどは経つと思う。
日本画で女を描こう、という呼びかけはある種の文化的ナショナリズムでもある。
美人画、と呼ぶときに私達は和服を思い浮かべるかもしれないが、それは実はどちらでもよく、前提として日本女性の神秘を描こうとしている。女性に神秘を求めるのは当の女性にしてみたら戸惑うような男の幻想かもしれない。だがそもそも人間というものは神秘であり、どんなに理性と科学が支配する社会でも女性はなおさら神秘であり、社会は神秘を求めている。日本の女性は神秘の源だ。
この十年、美人画と称するものは沢山出てきたが、先に例えたような美人画は果たして出てきたであろうか。深水、清方、甲斐荘、神草、テルヲを超えるものは出てきただろうか。現代女性の屈託を描いた人物像はあらたに開発されただろうか。
岡本東子は変わりゆく日本画、美術業界、そして社会の中で女達を描き続けた。
私達は彼女のそばで見守り、励まし、新しいなにかが生まれてくるのを待った。幽霊画などに彼女は新境地を見せた。光と影の中で立体的に描かれる21世紀型日本画とも言うべき女性像という技法を手がかかりに彼女は人間の真実を求めようとしてきたと思う。
だが彼女の作品が時代のアイコンと言えるほどの画業を成し得たかと言えばまだだ。
一年ほど前にこの連載で表明したように、彼女はより作品制作に専念できる環境をようやく今年整えようとしている。だが、この間のコロナ禍に画家たちも少なからず影響を受けて絵に集中できることは簡単な事ではなくなっている。
岡本があらためて私達の期待する方向にせよ、そうでないにせよ、私達を驚かせる仕事をしてくれるかどうかは、これからの彼女の集中力、底力にかかっている。そしてそこには私達の「期待する力」も作用するだろう。
今、美人画と呼ばれるものの多く、そしてそのなかで人気を博しているものの多くは、可愛らしく、歌謡曲によく登場するような憂いとロマンをたたえたドラマを演出した少女たちである。良くも悪くも、そういう絵を岡本は描かない。描けない。
彼女の女達は希望と絶望の境、光と影の間(あわい)を行き来して、光のある方へ歩んでいこうとする。光というのは必ずしも比喩ではない。暗闇の中に佇む女を描くのはいまだに彼女唯一人の作品世界だ。それはすなわち生身の女と、神秘とを行き来する。
彼女の絵が実際のところどこへ行っても構わない。
だがその世界がより豊穣になるように、私達は「期待力」という力を持って支えたいと思う。本当の岡本東子を探す旅は、実はまだ続いている。(秋華洞 田中千秋)
Exhibition:岡本東子個展「咲いて枯れて、咲く」 2020年12月11日(金)〜20日(日)