池永康晟インタビューその1:10年以上かかった肌色の追求

池永 康晟「溶ける・聖子」2020

現代美人画のトップランナーとして活躍する池永康晟(いけながやすなり)。こだわりの肌色が生み出されるまでの過程や、遅いデビューまでの道のり、そしてこれからのことについて聞きました。

問:なぜ、画家を目指したのですか?

3歳の自我の目覚めの時に、自分は画描きに生まれたのだと思った。
だから、画描きになりたいと思ったことはありません。
それは、人間に生まれて「人間になりたい」と思わぬのと同じです。
画描きとして生きることは、「希望」ではなく「宿命に対する諦め」です。
しかしそれゆえ、不遇の潜伏時代にあっても画描きとして生きる事はやめられませんでした。

 

問:制作プロセスについて教えて下さい。岩絵の具や膠を使うのはどうしてですか?こだわっている画材があったら其れについてもお願いします。

まず亜麻布に褐色の土絵具を擦り込んで湯で洗う、その上に黄土を擦り込んで、また湯で洗う。
二色の土色の重なりは織物のような風合いの柔らかな肌色になる、私が十数年掛けて見付けた肌色だ。
18歳まで美術高校で油絵を描いたが、上京して20歳で岩絵具を揃えてみた、其れからは独学だった。油絵から転向した私には紙に水で描くという方法が心許なかった、絵具を定着させることも出来なかった。ありとあらゆる方法を試してみた。基底材には、紙、板、金属、砂岩、木綿、石膏地、金箔地。展色材には、膠、テンペラ、蜜蝋。なにもかも私の思い通りにはならなかった。
27歳で失意のまま生れ故郷に帰った。
気紛れに亜麻布に家の前の畑から採った土を擦り込んでみた、惨めな泥滲みが出来ただけだった。失敗を洗い流そうと湯をかけた瞬間、その泥滲みは見事な黄土色に発色した。その黄土色の色面に少女の横画をを描いたのが私の最初の一枚だった。
28歳で再び上京してその肌色の再現を試みた。
偶然に出来た色面を再現するには時間が掛かった、毎日色見本を作り続けた。
再現できたのは38歳の時であった、しかしこの1色があれば私は描けると思ったのだ。
私は40歳になって漸くデビューすることが出来た。

次回に続きます。

池永 康晟「宵添い・沙月」2017
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池永 康晟