日本画家 池永康晟、阿部清子 トークショー | 2011年11月

池永康晟:女性は22歳で一度、自分を完成させるように見えるのです。でもまだ借りてきた理論武装だから、少し座りが悪い。少し間違った洋服を着て、でも上気しているようなさアンバランスが私は好きなのです。だからどうしてか22歳を好きになってしまう。若い娘だから思い通りにはならないけれど、描いている間は私のものに出来るのです。何時間でも筆と目で撫でていられるのです。 褐色の麻布に薄肌色を何重にか塗り重ねます。次第に浮き上がる人形(ひとがた)は目も鼻も唇も描かないうちに、柔らかさも体温も微匂いも、そのひとになるのです。好きになるほどそれは強くなるのです。 中学生の頃、前の席の同級生をずっと描いていました。恋人同士でも耳たぶを1時間見続けることってないと思うんですけど、それをするのです。毎日描いて少しずつ彼女の後ろ姿が自分のものになっていく。それがとてもいい、それが描く事の当たり前の衝動だと思うのです。

池永 康晟「水溜まり・真美」2012

最近、日本画で何故か人間が描かれなくなりました。描いても誰も見ないだろうと言われた事もあります。例えば現代劇で女子校生が登場したら、くつ下の色と形でどんな人物なのか、現代の私達には解るでしょう?。ルーズソックスとハイソックスの女の子の確執があれば、もうそれだけでハラハラする。でもあと何年かすれば、それは解らなくなる。皆が解るうちは風俗だけれど、解らなくなればシンボリズムとして学ばなければならなくなる。浮世絵の登場人物にも帯の結びや髪型に皆ハラハラした筈なのだけれど、今私達がどんなに学んでも、当時と同じ気分にはなれないのだと思うのです。 漫画の登場人物なら顔だけで、「妹で甘えん坊」みたいな事がすぐに読み取れます。でも大首絵に描かれたひとがどんな娘だったのか私にはもう解らない、江戸のひと達と絵師が築いた共鳴をもう無くしてしまったのです。漫画だっていつかそうなるのでしょう。 鏑木清方や伊東深水などの美人画も、同時代のひと達と築いた共鳴が有って、画のなかのひとに恋をした筈なのです。その関係が途切れた後に、また人間を描く事に躊躇した事は解ります、でもその時間が少し長過ぎたのではないでしょうか。そしてまた一度、幸福な共鳴を築くのには私独りの時間では足りないのだと思うのです。 また人間を描いても良いのです。人間を描くと言うシンプルな衝動の海に、また水が満ちるのなら、指派は最初の一滴にならないかと思うのです。 絵の具は必ず量って記録しながら描きます。 同じ結果を出す為に、気候や材料によって方法を変えるのが職人業なら、同じ結果を出さない為に、変わらない方法を見付けるのが私の仕事です。筆は面相と蒔絵筆だけで充分なのです。

池永 康晟「甘い風・真喜子」2011

阿部清子:私は小さい頃からずっと人を描きたいと思っていました。私にとって、一般に常識とされることでも分からないことがたくさんあり、それは生きる上で恐怖でした。怖さの原因を知るためにも、自分を含め人を描きたいと感じたんです。実際、社会的には欠点とされている私の特性も、絵を描いている時には長所となることを知りました。 日本画で使う岩絵具は、粒子が粗く混色しにくいんです。それぞれの色に個性があり、さらに墨はやり直しがききません。クセがあって不便なのですが、私は逆にそれが自由に繋がっていると感じています。画面上で足していくというより、余分なものを引いていく、そういう日本画の特性が、自分の美意識や描きたいものにしっくり馴染んだのです。 画材にはなるべくお金がかからないようにしています。筆はコシのある付立筆、これは手にはね返ってくる感触が気持ちいい。私にとって、絵は究極を言ってしまえば水と窓ガラス、指と砂浜があればそれで描けるものなんです。一番大切なのは情熱、そう思っています。

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池永 康晟